曙綜合法律事務所 AKEBONO LAW OFFICE

事務所通信
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19年目の墓参(田中宏弁護士)

 近年、遠隔地の裁判所で審理されている事件は、期日のたびに出頭することなく、手続きの大半が電話会議やビデオ会議ですむようになり、出張は激減した。そんな中、2020年秋から2021年春にかけて、事情があって電話会議やビデオ会議が使えない種類の事件を引き受けることとなり、出張が何件か入ったのだが、その中に、神戸の裁判所の案件があった。
 
 神戸の裁判所は、20年以上前に、事務所で受任していた刑事事件を手伝ったときに、何度か通ったことがあったが、それ以来のこと。当時は阪神淡路大震災からの復興直後で、市内の警察署で刑事さんと四方山話をしていたときに、「あの辺りは、全部焼けてしまいました」と説明を受けたことがある。
 
 9時台の新幹線にのって、新神戸に12時30分過ぎに到着。市営地下鉄で大倉山まで行き、そこから坂を下る。下層階が煉瓦貼りで、上層階がガラスという、木に竹を接いだような、神戸地方裁判所のフォルムも健在だった(写真1)。
 
写真1(s)(写真1)
 
 午後1時30分から裁判所での手続。今日で解決と思っていたが、手続は予想外にてまどり、場合によっては次回期日まで続行という空気が流れだす。「まいったな…」と思ったが、今回は手続に参加している立場が主体的ではないため、どうすることもできない。それ以上に「ともかく今日はこのくらいにして。これ以上長引くこの後の予定に差し支える。」という気持がふつふつと涌いてきた。幸い、関係者の尽力で解決して手続終了。午後3時頃に解放された。
 
 急いで裁判所から地図頼りに高速神戸駅へ。特急梅田行きにのり、三宮で各停にのりかえ、六甲駅で下車する。駅前の阪急タクシーの乗り場に行き、「長峰霊園まで御願いします」と告げる。そして「あの…、中に指揮者の朝比奈隆さんという人のお墓があるんですが、ご存じでしょうか」と尋ねたところ「いやあ…それは判りませんねぇ…。」とのこと。
 
 無理もない、朝比奈さんが亡くなったのは、2001年の12月。もう20年近い年月が経っている。それに、それでもあえて訊いてみたのは、先年、同じように、神戸に「巡礼」に訪れた友人が、同じように阪急タクシーに乗ったら、なんと、タクシーの運転手さんが、生前の朝比奈さんを何度も乗せたことがある人で、生前棲まわれていた家(今は手放されている模様)まで案内してもらったという経験をされていたからである。ま。そううまくはいかない。ともかく長峰霊園まで行って貰うことにした。
 
 途中の道が凄い登り坂で驚く。グーグルマップでは徒歩で30分くらいとでたので、歩くことも考えていた。今日は時間が無かったのでタクシーにしたが、なまじ時間に余裕があって歩いていたら大変なことになった。タクシーの運転手さんから「音楽関係のかたですか?」と訊かれた。「いや。聴くだけですわ。」と答える。
 
 霊園の入口で降りて、事務所のご婦人に「ここに指揮者の朝比奈隆さんのお墓があるときいて来たのですが」と告げると、地図で場所を教えてくれた。お墓の番地を頼りにいってもいいのだが、教えて貰った言葉を書くとこうなる。
 
「門を入って少し直進し、左に曲がる道があるので、そこを左折して直進。しばらく行くと三叉路になる。そこを更に直進して水くみ場を目印にしてそこから5つめ。進行方向向かって右(山)側。」
 
 その言葉を運転手さんに伝えて、少しずつ進んで貰う。「このへんですかね…」というところで、車を止めて貰い、下車。
 
 海を見下ろす素晴らしい眺望のところに、朝比奈さんのお墓はあった。音楽雑誌や単行本で、御自身のお墓の横に立たれている朝比奈さんの写真で何度も見た、りっばな墓石だった。持参した、ブルックナーの交響曲第5番のスコアと、木之下晃さんの最後の写真集を墓前に供え、祈った(写真2・3・4)。
 
写真2(s)(写真2)
写真3(s)(写真3)
写真4(s)(写真4)
 
 朝比奈さんは、京都帝国大学に入学、末川博・佐々木惣一・瀧川幸辰などの京都帝国大学の誇る名教授の講義を受けつつ、オーケストラでは、ロシア人のエマヌエル・メッテルの指導を受けていた。大学を卒業して高等文官試験を受けたが、商法で、普段は試験問題に出ることが稀な「小切手」を出題されて落ちるという、後の司法試験に通じるような「やらかし」をやっている。そこで阪急に入社してデパートで仕事をしたり電車の運転をやっていたが、音楽への思いを断ち切ることが出来ず、音楽の道に転身した。
 私事であるが、私も司法試験に合格した前年の論文式試験の行政法(当時は選択科目であった)で、妙ちくりんな問題を出されて轟沈しており、自分に共通するものを感じてしまった。
 
 朝比奈さんの作る音楽は、小細工なし。弦楽器に対しては「もっと堂々とハイフェッツみたいに弾きなさい。」と指示し、ドイツのオーケストラを振っての演奏会前に「このホールはあまり大きくないのだが、目一杯吹いて構わないのか?」と訊ねてきた金管奏者に対して「どんどん吹きなさい」と煽り、ティンパニ奏者に対しては「俺と勝負だ」と対決を挑む。こんなことを言われて、オーケストラの団員が燃えないわけがない。細かい傷はあっても、音楽全体の大きさや厚さは他に類を見ないものだった。私は、1990年代後半以降、東京で行われた朝比奈さんの演奏会はほぼ全部聴きにいき、2001年には、大阪で行われた3回の連続演奏会のチケットを買って、「聖地巡礼」を果たした。3回の演奏会が、全て休日の午後3時開演。演目はブルックナーの交響曲(5番・8番・9番)となれば、聴きに行かないわけが無い。その最終回である2001年9月23日。ザ・シンフォニーホールで行われた、連続演奏会の最終回、ブルックナーの9番が、私が朝比奈さんの指揮する最後の実演の機会となった。
 
 朝比奈さんは10月24日に名古屋で、自ら育てた大阪フィルハーモニー交響楽団を指揮し、自らがプロの指揮者として最初に振ったチャイコフスキーの交響曲第5番を、身体に残る力を振り絞って指揮し、指揮者としてのキャリアにピリオドを打たれた。そして、2001年12月29日に亡くなられた。
 
 あれから、約20年。いろいろなことがあったが、ようやく墓参が叶った。東日本大震災、そしてコロナ禍。御大が生きていたらどうおもっただろう、と考えることもあるが「わたしは音楽をやるだけですからな」と泰然としているかも知れない。
 
 運転手さんに写真撮影を頼んだところ快諾してくださったので、何枚か撮って貰った。朝比奈さんの墓前に30分ほど滞在して、もとの六甲駅まで送って貰った。帰りの車の中では、コロナ関係の話。人が動かないと、タクシーに乗ってくれる人も居ないので、営業的にも厳しいとのこと。
 
 午後5時前に六甲駅着。夕陽が美しい。六甲駅から三宮駅に戻り、事務所へのお土産を買い、夕食へ。20年前は、仕事の後、ワインを飲んでステーキをたらふく食べ、焼きメシをほおばったのだが、今はとても無理。結局120グラムくらいの牛カツのお膳(写真5)で満足してしまった。三宮から地下鉄で新神戸駅に戻り、新神戸18時過ぎの新幹線で東京に戻る。帰りの音楽は、朝比奈さんが最晩年に振ったブルックナーの交響曲第8番。良く歩いたので、ちょっと疲れて居眠りをしてしまった。思いも寄らない機会に実現した、19年目の墓参であった。
 
写真5(s)(写真5)